染付が好きな方なら、きっと一度はその名を耳にしたことがあるかもしれません。
「川名焼」――名古屋の昭和区・川名山町あたりで、わずか30〜40年ほどの短いあいだだけ焼かれていた、幻の焼き物です。

江戸の終わりに生まれ、明治の初めに消えた焼き物
川名焼が登場するのは、江戸の終わり頃、嘉永年間(1848〜1854)。
瀬戸の陶工・川本治兵衛(僊堂)の弟子だった加藤新七がこの地で窯を開きます。
当初は普通の染付磁器を作ろうとしましたが、瀬戸側からの反対にあい、
「手描きは禁止、銅版転写による絵付けのみ」という条件のもとに始まりました。
当時の最新技術であった銅版転写を使い、唐草文や草花文、西洋風の人物や風景まで――
まるで時代の境目を象徴するような、新しい染付の世界が広がっていきます。

短い歴史のなかで生まれた、個性と静けさ
その後、安政年間(1854〜1860)には再び動きがあり、
僊堂の弟子・寺尾市四郎が湖東焼(滋賀・彦根)から戻って再興。
赤津の加藤春岱も関わったとされ、様々な人の手を経ながら、独特の表情をもつ器たちが生まれました。
しかし、銅版転写という技法は非常に繊細で、効率も悪かったため、
川名焼は長く続くことができませんでした。
嘉永から明治初期までのわずか30〜40年。
それでも、その短い時間に生まれた作品には、他の焼き物にはない静かな個性が宿っています。

「名」がある器が語るもの
川名焼の中でも特に貴重とされるのは、
器の裏に「川名山製」や「安政年製」といった銘が入ったものです。
こうした作品は一対(一双)で作られることも多く、
揃って現存する例はさらに稀。
いまでは、「ものが出てこない」――
そう言われるほど、市場でも滅多に見かけない存在です。
まさに「静かに収まるべきところに収まった焼き物」なのです。

京都へ渡った名古屋の染付
面白いのは、当時の川名焼が京都へ出荷されていたという点。
名古屋で生まれ、京都で売られ、
いまでも京都の骨董市などで偶然その姿を見つけることがある――
そんな“旅する焼き物”でもありました。

染付が好きなあなたへ
染付が好きな人には、この川名焼の存在をぜひ一度心に留めておいてほしいのです。
瀬戸や美濃のように華やかな系譜ではないけれど、
その短い命の中に宿る「静かな気品」と「転写の妙」。
もし、どこかで小さな火入や酒器に、
うっすらと「川名山製」の銘を見つけたら――
それはきっと、時代を越えて生き残ったひとつの物語です。

余白の美を感じる焼き物
川名焼は、数こそ少ないけれど、
その少なさゆえに、ひとつひとつの出会いが特別です。
静かな青と白、版による揺らぎ、そして異国風の文様。
それはまるで、時代の狭間に現れて消えた“染付の余韻”。
その静かな世界を感じる時間こそ、
古美術を愛する者にとっての、何よりの楽しみではないでしょうか。

| 年代 | 出来事・動向 | 備考 |
|---|---|---|
| 嘉永年間(1848〜1854) | 瀬戸の陶工・川本治兵衛(僊堂)の門弟 加藤新七 が川名村で開窯。 | 染付磁器を試みるが、瀬戸窯の抗議により銅版転写製品のみに限定される。 |
| 安政年間(1854〜1860) | 僊堂の弟子 寺尾市四郎 が湖東焼(滋賀・彦根)から帰郷し、川名焼を再興。 | 一時期、赤津の 加藤春岱 も関与したとされる。 |
| 幕末期(1860年代) | 川名焼の製造は続くが、技術習熟の難しさから興廃を繰り返す。 | 「川名山製」「安政年製」などの銘が確認される。 |
| 明治初期(1868〜1870年代) | 生産は縮小し、やがて衰退。 | 活動期間は約30〜40年と推定される。 |


