世界が先駆けて称賛!ジャポニズムやアールヌーボーに影響を与えた瀬戸磁器

 

 

日本屈指の窯業地である瀬戸は、日本六古窯の一つとして約1,000年もの間、途切れることなくやきものを生産し続けている産地です。

 

この長い歴史の中で、「せともの」という言葉は陶磁器の代名詞となりました。

 

瀬戸は時代ごとに特色のある焼き物を生み出し、江戸時代後期には磁器の生産も始まり、特に明治時代には多くの輸出向け作品を制作しました。

 

他の産地と異なり、陶器と磁器を同じ地域で生産することが瀬戸焼の特徴であり、これは全国的にも珍しい点です。

 

こうした背景から、従来とは異なる趣の瀬戸焼が生み出され、現在の多様な瀬戸焼の基盤が築かれました。

しかし 近代における瀬戸磁器に対しては, 昭和時代までは全く顧みられることはなく,世間では知られていない存在でした。

 

では、なぜ近代瀬戸磁器は、昭和時代まで世間に知られることなく評価されることが無かったのでしょう。

 

 

その理由は・・・

 

  1. 輸出に重点を置いていたため、国内に作品が残らなかった

 

瀬戸の焼き物は、江戸時代から続いた鎖国の撤廃を契機に、本格的に輸出が開始されました。19世紀以降、特に万国博覧会への参加やその博覧会での高い評価により、輸出がさらに進展しました。19世紀後期には、瀬戸で生産された焼き物の約7割から8割が輸出されていたため、地元瀬戸にはほとんど残されていませんでした。このため、地元の人々はこれらの作品を実際に目にする機会がなく、瀬戸磁器の存在やその価値が広く知られることはありませんでした。

 

瀬戸の焼き物は主に海外市場で評価されていました。特に19世紀の初頭から生産が始まった瀬戸染付は、その精密な絵付けや精巧な作りが高い評価を受けました。これらがジャポニズムやアールヌーボーに影響を与えたと言われています。フィラデルフィア博覧会に出品された日本の焼き物が一括してロンドンのビクトリア&アルバート美術館に収蔵されるなど、明治時代前期の日本のやきものを解明する貴重な資料となっています。

 

 

 

2.情報の不足

 

瀬戸磁器についての情報や参考文献が非常に少なかったため、その実態が明らかにされていませんでした。平成4年(1992年)に瀬戸市歴史民俗資料館で開催された「加藤周兵衛展」によって初めて近代の瀬戸磁器が紹介されました。それまで、瀬戸の近代陶磁器についての作品や情報が不足していたため、世間一般にはその価値や歴史が認識されていませんでした。

 

近年になって、欧米からの里帰り品が増加し、海外での調査が進んだことによって、当時の瀬戸磁器の全容が徐々に解明されてきました。このような研究の進展が、瀬戸磁器の価値を再評価するきっかけとなりました。現在では、瀬戸が培ってきた伝統技術や意匠に西洋の最新技術や意匠を融合させた世界的に高いレベルの作品であったことが明らかになり、誇るべき焼き物であったと評価されています。

 

 

 

参考文献

「輸出された瀬戸のやきもの」せとものフェスタ2000 2000年4月15日発行

やきものの心に挑んだ「瀬戸・美濃の美」 横山美術館 2021年3月13日発行