みなさん、「川名焼(かわなやき)」って知っていますか?
名前を聞いたことがない人が多いと思います。
でも実は、名古屋市昭和区川名町のあたりで、今から150年以上前に作られていたやきものなんです。
はじまり──加藤新七の挑戦
川名焼を始めたのは、加藤新七という人。
彼は「僊堂(せんどう)川本治兵衛」の弟子で、1848年ごろ(嘉永年間)に川名村で窯を開きました。
当初は、染付磁器の全般を焼き始めましたが、瀬戸の職人たちから強い抗議を受けます。
その結果、瀬戸の焼き物とは異なる種類である「銅版絵付け」の製品だけを作る、という条件で創業を始めることになりました。
つまり、川名焼は最初から“特別なルールの中で生まれた焼き物”だったのです。
開窯の時期には2つの説がある
川名焼の「開窯(かいよう/窯を開くこと)」については、
文政年間(1818〜1830)説
嘉永年間(1848〜1853)説
の2つの説があります。
どちらの時期にも、川名では磁器以外にも新しい製品が作られていました。
その中には、薩摩焼を模して作られた「瀬戸薩摩(ひび焼)」と呼ばれる新しいやきものもあったそうです。
これは、のちに瀬戸で人気となる「瀬戸薩摩」が生まれる前の出来事とされています。
一度は途絶え、そして再び…
その後、川名焼の生産は一時途絶えました。
しかし、春日井郡大森村の寺尾市四郎が、再び火をともします。
寺尾市四郎は、瀬戸の川本家で陶芸を学び、さらに**湖東焼(ことうやき)**の窯で経験を積んだ人物。
嘉永年間(1848〜1853)にはその窯場で働いていました。
そして、のちに川名山(香積院)焼を再興し、銅版絵付けを行いました。
この再開の時期についても、
安政年間(1854〜1860)説
文久2年(1862年)説
の2つの説が伝わっています。
川名焼は、明治20年(1887年)ごろまで作られていたといわれています。
「五郎焼」とも呼ばれた川名焼
寺尾市四郎の名前の「市」と「四郎」をとって、
「五郎焼(ごろうやき)」とも呼ばれました。
職人の名前が焼き物の名前に残るほど、彼の存在は大きかったのです。
まとめ──短くも熱い“挑戦の歴史”
川名焼は、瀬戸焼の陰に隠れた“小さなやきもの”かもしれません。
でもそこには、新しい技術に挑む勇気と、伝統に縛られずに生きた職人たちの物語があります。
40年ほどの短い歴史の中で、川名の土と火は確かに輝いていました。
A「嘉永」


B安政年製


上記写真は、川名焼の製品の高台部に表示されている裏銘。製作年代と、表示年代と合致しているかは分かりません。


