川名焼にまつわる“いくつもの説”──幻のやきものをめぐる謎
川名焼の始まりについては、いくつかの説があります。
誰が最初に銅版絵付けを試みたのか、いつ窯が開かれたのか——
史料によって少しずつ違いがあるのです。
50年前の記録──川本治兵衛と加藤五助の試み
明治30年(1897年)に刊行された『窯業協会誌 第54号』には、次のような記述があります。
「川本治兵衛の親族・加藤五助の話によれば、50年前に川本治兵衛が銅版の染付(絵付け)を試みた。」
この「50年前」というのは、弘化年間(1847年)から嘉永元年(1848年)ごろにあたります。
つまり、江戸末期にはすでに川本治兵衛が銅版絵付け技法の研究や開発を進めていたということです。
川本治兵衛と弟子たち──協働の時代
加藤五助の話によると、維新の20年ほど前(つまり嘉永元年・1848年ごろ)、
川本治兵衛は銅版の染付技法に挑戦し、
弟子の加藤源吉や川本半助たちもこれに習って技術を磨いていました。
その同じ時期、
弟子の一人である**加藤新七は、川名村の新しい窯=川名窯で、
銅版絵付けによる磁器の制作を行っていたと伝えられています。
このことから、
川名焼(かわなやき)の開窯は嘉永年間(1848年ごろ)に始まったという説が、
有力とされています。
瀬戸での広がりと衰退
川名焼の誕生と同時期、
川本治兵衛のもう一人の弟子、加藤源吉は瀬戸で銅版製品を焼いていました。
この動きが、のちに川名焼の窯はやがて廃窯=閉鎖に追い込まれたとも伝わっています。
それでも当時の作品をよく観察すると、
手描きと見まがうほどの繊細さ、線の太細による濃淡表現、そして深い描写力があり、
職人たちの高い技術を今に伝えています。
川名焼を支えた三人の職人たち──技と情熱の系譜
川名焼(かわなやき)の誕生と発展には、三人の陶工の存在が欠かせません。
瀬戸の伝統を受け継ぎながらも、新たな技を求めて挑戦を重ねた彼らの歩みが、
やがて名古屋・川名の地に新しい焼き物文化を生み出しました。
🔹川本治兵衛──瀬戸に生きた名家の陶工
尾張国瀬戸で代々窯業を営む陶工の家に生まれました。
初代・川本治兵衛は、加藤民吉に師事し、それまでの陶器づくりから磁器生産(新製焼)へと転業。
染付磁器の制作に取り組みました。
二代目・川本治兵衛(初代の三男・本名「加藤藤平」)は、
天保10年(1839年)に染付銅版の研究と試験焼きを行い、
その技術の高さから尾張藩御用の焼物師に列せられました。
この川本家で磨かれた染付と銅版の技術が、のちの川名焼誕生の土台となりました。
🔹加藤新七──瀬戸から川名へ、新たな挑戦
加藤新七は生年不詳ですが、江戸後期の瀬戸の陶工でした。川本治兵衛の門下で学び、銅版印刷による染付磁器の技法を習得。
その後、**嘉永〜安政年間(1848〜1860年ごろ)に、尾張藩の数寄者たちの後援を得て、
尾張国愛知郡川名村(現在の名古屋市昭和区川名町)にて窯を開きました。
ここで彼は、瀬戸焼とは異なる新しい表現を目指し、
銅版絵付け磁器を中心とした制作を行いました。
この挑戦こそが、後に「川名焼」と呼ばれる焼き物の出発点といわれています。
🔹寺尾市四郎──再興を果たした名人陶工
寺尾市四郎(1807〜1878)は、川本治兵衛の愛弟子であり、
大物作品の製作を得意とした名人として知られています。
のちに湖東焼の窯場で職人頭を務め、
その閉窯後は九州各地の窯場をめぐって技を深めました。
そして安政年間(1854〜1859年ごろ)、
再び川名山の地で窯を再興し、銅版染付磁器の制作を再開します。
この再興によって、いったん途絶えていた川名焼は息を吹き返しました。
また、一時期には赤津の加藤春岱が関与していたとも伝えられていますが、
その詳細は今も不明な点が多く、研究が続けられています。
A草花丸文繋碗

B口縁内部の縁飾り

川名焼で銅版転写によって装飾された磁器製品には、
湯呑み・火入れ・菓子器・皿・茶器類・酒器類・文具類など、
実に多様な種類がありました。
製地と釉薬(ゆうやく)の調和が見事で、
全体からは上品で高級な質感が漂っています。
また、当時の高級磁器に共通する意匠として、
口縁部や外側を巡らせた唐草模様が流行しており、
その模様を銅版転写で施す際には、
柄のつなぎ目が分からないほど精密で丁寧な仕上げがなされていました。
その完成度は、まるで手描きと見まがうほどの繊細さで、
職人たちの技術の高さと美意識を今に伝えています。
C花唐草文全面貼碗



