加藤繁十は清栄軒と号し、瀬戸の新谷地区で江戸時代から昭和時代にかけて約100年間、四代にわたって活躍した陶磁器の製造を行った窯屋。
瀬戸は、顔料となる呉須が産出する稀少な陶産地であったことから、磁器製品の中心は、釉薬の下に絵付を施す「染付」でした。
しかし明治時代には輸出向きの製品として、瀬戸でつくられた磁器に、横浜等の港町で上絵付を施す業態が生まれ、色鮮やかな作品が出荷されていきます。
繁十の作品は瀬戸の窯業史の縮図ともいえ、優れた技術力と絵付や釉薬などで飾られた優美な姿が特徴で染付磁器に始まり、釉下彩やマンガン釉・青磁釉などその時代を象徴する作品に取り組み、瀬戸の窯業界をリードし常に多彩な作品を生み出してきた瀬戸焼の名工
また登窯や焼成方法の改良などの技術開発にも余念がなく、研究熱心だったが、研究に財を注いだ結果、一時期窯屋を廃業しているが、腕を見込まれ、明治24年(1891年)瀬戸において加藤清助景登の陶碑再建の時にはその焼成を依頼され、その後窯屋を再興している。
明治時代には、瀬戸の多くの窯屋が、当時開催された国内外の博覧会に作品を出品している。
二代、三代繁十も様々な博覧会に出品しており、なかでも5回にわたり開催された内国勧業博覧会では、すべてに出品した数少ない窯屋の1つです。
博覧会では、毎回高い評価を得た。
➀瀬戸の陶芸 1300年の歴史と今 会期平成7年8月5日~9月28日 (編集・発行)愛知県陶磁資料館
➁瀬戸染付の全貌 世界を魅了したその技と美 (主催)瀬戸市文化振興財団・瀬戸市
➂2005年日本国際博覧会開催記念 瀬戸陶芸の精華展 (発行)NHK名古屋