幕末から明治へと新時代への転換期。
尾張徳川藩政の中で生き残った窯屋は、かつてない大きな変動を受け、明治維新の政府の施策に対応できず、一時は困窮したようです。
まず山林は御料林となり、薪の伐採は禁止され、粘土採取は有料となりました。
その上、尾張藩の保護統制政策に永年慣れていた窯屋には、資本の蓄積は少なく、一時はなすすべを知らないという状態に陥ったようです。
封建的な諸制約から解放され、明治政府の「富国強兵、殖産興業」のスローガンのもと、輸出振興政策により瀬戸の陶磁器は、そのエネルギーを海外に向けて押し出されました。
特にこの輸出進展に大きく貢献したのが、欧米で盛んに開催されていた万国博覧会への出展です。
特に尾張徳川藩から冷遇されていた、本業は、明治6年のウィーン万博博覧会を皮切りに精力的な出品をし、瀬戸物の市場を世界に広げました。
この頃の貿易品は、織部のコーヒーセット、ポット、洋皿、陶製玩具、装飾品など、陶製品は意欲的な製品が多く見られました。
明治6年(1873年)ウィーンで開催された万国博覧会
明治9年(1876年)フィラデルフィア万国博覧会
明治11年(1878年)パリ万国博覧会
これからの博覧会に初代川本桝吉、加藤勘四郎、四代加藤五助、二代加藤杢左エ門、六代加藤紋右衛門、六代川本半助など数多くの者が受賞し、高い評価を得て、瀬戸の名を世界に知らしめました。
瀬戸のやきものは、万国博覧会で高い評価を得たことによって、国際的な信用を得、大量に欧米諸国へ輸出されることになりました。
ところが当時製作された瀬戸焼き物のほとんどが輸出されたため、地元に残されるものが少なく、実際にそれらの作品を間近に見ることができなかったため、その実態が明らかにされてこなかったようです。
しかし、近年欧米からの里帰り品が多くなってきたことによって、当時の作品の傾向がようやく明らかになってきました。
それらは、瀬戸が以前から培ってきた伝統技術や意匠に、西洋の最新技術や意匠を積極的に融合させた、世界的に最高レベルのものでした。
また、国内向けにも瀬戸は新しいアイデアで新製品を送り出しています。
有田磁器より純白の素地、1mmにも満たない薄手で透明度の高い白地に染め付けられた呉須絵の酒器や煎茶器など、明治期の瀬戸磁器は、現代でも手に取ってみても驚くような名品に接することができます。