加藤周兵衛(二代)(1848~1903)白雲堂

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加藤周兵衛(1848年-1903年)は、瀬戸の南新谷地区で活躍した染付作家で、初代周兵衛の長男徳七として生まれました。彼は「白雲堂」の号で知られ、1877年に家業を継承し、染付磁器の生産を行っていた窯屋の二代目として主に米国・英国向けの食器類を手掛けました。森村組(現在のノリタケカンパニーリミテッド)の指定工場として、格調高い作品を生産し、輸出用ディナーセットを中心に製作しました。

 

森村組の生い立ちは、こちらを参考に!

 

また、周兵衛は絵付けにも熱心で、大島霞城や加藤梅太郎といった著名な絵師たちを招いて作品の価値を高め、染付だけでなく上絵付けや正円子の研究にも取り組みました。明治27年(1894年)には五二会瀬戸支部の理事に就任し、明治30年(1897年)には「陶器貿易会社」を設立するなど、輸出を中心とした生産販売に尽力しました。彼の窯では、後に人間国宝となる加藤士師萌も働いていました。

 

加藤周兵衛の窯は大正11年(1922年)に工業閉鎖。彼の妻は周兵衛の死後も窯の創業を続け、大正時代まで活動を続けました。

 

なお、初代周兵衛は1852年(嘉永五年)に分家し、製磁業を開始しました。彼の親戚には瀬戸の北新谷地区で三代にわたって陶磁器生産を行った加藤杢左衛門(もくざいえもん)がいます。初代加藤繁太郎は初代周兵衛の四男で、後に二代加藤杢左衛門の養子となり、杢左衛門三女と結婚しています。

 

加藤周兵衛の工房は、江戸時代後期から大正時代にかけて、主に染付を中心とした作品を制作しており、明治6年(1873年)のウィーン万博、明治11年(1878年)のパリ万博、さらに明治43年(1910年)の日英博覧会に出品し、受賞もしています。2代周兵衛以降、鳳凰や唐草、菊花文を一貫して使用し、英国向けのディナーセットを制作し続けました。

 

 

上絵付けとは・・・

陶磁器に絵柄を描く方法には、釉薬をかける前の「下絵付け」と、釉薬の上から描く「上絵付け」があります。下絵付けは藍青で描かれ、釉薬をかける前に施されます。一方、上絵付けは釉薬の上から多彩な色で描かれます。この二つの技法を合わせることで、陶磁器に美しい模様や絵柄が生まれます。

 

 

「正円子」とは・・・

陶芸用の高級顔料で、金を含む金属顔料の一種です。絵付けや釉薬に使用され、幕末に流行しました。焼成前は赤茶色の粉末状ですが、還元焼成すると淡いピンク色から赤紫色に発色します。高温で焼くと赤紅色に発色し、金を含有する貴重な絵具です。

 

 

中国色絵磁器の技法のなかでももっとも難しいとされる「黄地紅彩(おうじこうさい)」や「萌葱金襴手(もえぎきんらんて)」などを再現し、1961年に人間国宝に認定された陶芸家・加藤土師萌(はじめ)。

 

 

 

 

 

 

参考文献

瀬戸 染付の全貌 世界を魅了したその技と美 磁祖「加藤民吉」九州200年記念

寄贈記念展 山繁三代のコレクション 明治以降の商家のうつわ

 

 


 

青磁 青緑釉鉢

加藤周兵衛(二代)

明治時代

「白雲堂周兵製」染付銘

法量:品高10.0㎝ 口径(幅)18.5㎝

 

 

 

 

 

加藤周兵衛の作品を以前瀬戸蔵で鑑賞した時、似たような青磁釉下彩花鳥図鉢を見ました。曲面外面には、青磁釉の素地に「竹に雀」が染付で描かれていて、見込は、梅・欄・菊が描かれ口縁には、漢詩が書かれていました。

 

この写真の鉢もよく似ていて、曲面外面には青磁の釉薬がかけられており、透き通った青磁が美しい。見込みは漢詩と共に白地に良く花鳥の藍色が良く映えています。あと周兵衛は、鳳凰唐草文の図柄は得意だったみたいですね。

 

 

染付菊唐草鳳凰文皿

明治時代中期~後期

高さ5.5cm 幅27.5cm

鳳凰と唐草・菊花文は、染付の図柄として二代周兵衛以降、一貫して用いられた図柄で、主に英国向けのディナーセットを制作していた。